Sympathy (or Resonance, Echo)

琴線に染み込んでゆく時の影色

追うよりは待つことを選ぶ。

いや実はむしろいつも忘れたように時が過ぎてしまうのであるが。
気がつくとそれがどれだけの時間だったのかと実感を伴わない痕跡がそこにある。
目標を特定し常に念頭に置くと視線が張ったままになる。目を閉じると肩の力が抜ける。
と、同時に意識の中にふと僅かな隙間が出来る。そこに機を得たように自然に流れ込んでくる何か。
それを待つのだ。それが体に染み込んでゆく刹那を楽しむ。

はっきりしたものではなく、常に同じでもない。ましてや事前に想像していたものとも違う。
でもそれまでの頭の中、体の中を占めていたものが洗い流され、意識の芯に新たな軸が感じられる。
そんな瞬間がある。
見ようとして見つけられずもしくは見つめきれず、思いがけなくふと瞼の奥に瞬きの間隙を通して入り込んでくる。
そんな何かを待っている。

「待つ」というのはある意味では「祈る」事と同義かも知れない。
それは確信を持てないながらも求めるイメージを少しずつでもひとつずつ積む事、絶えず続ける事、
次へと繋ぎ合わせようとする事であり、それだけの信念に支えてられている姿勢だと思う。
しかしどこかでアプローチの意識を途切らせて身構えるだけになる事ではなく、
常に無意識ながらにも何かに期待を馳せつつ継続したアクティブな姿勢として、である。
また事を急いたり思い込んだり思いつめたりしないように。あくまで無為の状態が望ましい。
いつ芽が出てどんな花や実がつくとも知れぬ植物にも水と光を絶やさない様にする事だ、とも例えて言えようか。

「紡ぐ」という行為・語感・ニュアンスがこの私的な意識の核心に近い気がしている。
いちどきに多くを得ないが確実に伸展し、多方向へ展開しうる柔軟性を持っている。

全ての事象は常に相互に影響しあい固定される事なく形や状態を変えてゆく。
その要素分子の振動の状態によって光と感じ音と聴き、何らかの香りと受け取っているが、
さらに感覚器官を通した後に互いに融合されて感情や記憶として沈着する。
それら分子の点が連綿と連なって線となり、振動が相乗的に増幅され糸を引いて時空間に漂っていると考えてみた。
待つという事は無為なアンテナにかかったそれらの糸を無心のうちに心の琴線と絡め合わせる行為であり、
感情や記憶はそれらが素になってその無意識の期待の中に紡がれていった織物の形と言えまいか。

学生時代に始めてから20数年の間、私は地球の重力を用いた時空の機織機とも呼べる装置を作ってきた。
ただやはりどのような紋に織りあがるのかは望んでも前もって知る事は出来ない。
願わくはひと筋でも月夜に映える風の影を掬い取ったかのようなキメに仕立てたい。

(個展 「時紡 TOKITSUMUGI」のために 2007年 春)

inserted by FC2 system